海外での生活
伊藤 國廣 さん A回目


配属先の方に呼ばれ還暦祝いをしてもらいました
  



シニア海外ボランティアとしてガーナで活躍された伊藤國廣さんがいよいよ日本に 帰国されます。(2009.4.2帰国予定)
帰国前のお忙しい中、長崎西高とーく会、管理人よりの質問に丁寧に答えていた だきました。



高校時代はどこから通っていらっしゃ
いましたか?
伊王島に住んでいましたので、先ず船に乗り、大波止からは電車で通学していま した。

どんな生徒でどんなことに興味を持っ
ていましたか?
小学校の時近くの方がブラジル?に移られるのを見送りに行き、自分も将来海外 に出たいと思っていました。

好きだった先生とか印象に残ってい
る同級生とかいましたか?
印象に残っている同級生は岡崎清太郎君(もう亡くなられています。)です。
島から1時間以上かけて通っている私とよく気が合いました。お諏訪さんに行った りしお互い交替でおごりあっていました。

クラブは何をしていましたか?
クラブは軟式テニスに入っていましたが、あまり上手ではありませんでした。

何か覚えている事件とかエピソードと
か今だから言えることってありません
か?
海外に興味があったのですが、英語は全然だめで、試験で8点(100点満点)をとっ たこともあります。このときは3重の赤丸をもらい、これはひど過ぎるとの先生のコメ ントつきでした。この為大学も英語の配点が少ない所を選ばざるを得ませんでし た。でもやはり海外への憧れからか卒業論文は英文で出しました。

社会人になられてからのお仕事はど
のようなものだったのでしょうか?
大学卒業後、入社式に参加するため上野駅に集合しているところで杉山量良君(6 組)とばったり会い、同じ会社に入社したのが分かりました。
その後は別々の工場配属になりました。
仕事は計算機のハードディスクを製造する工場に配属されました。

ホームページの伊藤さんの(@回目)
ところを読み返すと「15年前にフラン
スにいらっしゃった。」と書いてありま
すが、海外勤務は長かったのでしょう
か?
現地の言葉などはすでにマスターし
ていらっしゃたのですか?
海外への憧れから入社3年目に1か月会社を休みアメリカ旅行をしました。一人で 旅行したのですが、言葉が不自由であまりしゃべることができなく、日本に帰って 来た時は言葉がしゃべれると感激したものです。
この旅行のおかげで自分は今いる会社でしか務まらないと思い、真面目に仕事に 打ち込みました。年間1200時間の残業をしたこともあります。

転機が訪れたのは37歳の時で海外製造子会社をアメリカのオクラホマに設立に参 加することになり、そこで4年8か月過ごしました。半年帰国したのちフランスでの 工場設立にも参加しそこで8年8か月過ごしました。私がフランスにいる時、また英 国に赴任していた杉山君と会うことになりました。

お子様が3人いらっしゃるということで
したが、小さい頃は海外にも一緒に
赴任されたのでしょうか?
その時の苦労話など。
子供は3人おり3人目はアメリカで生まれました。
フランスに赴任したのは長女が9歳の時でフランスでは小学3学年でしたが、校長 先生の勧めで小学1年に編入しました。こちらの状況を説明し、受け入れて下さる 校長先生でした。
校長は女性で娘さんも先生をなされており娘さんから家庭教師をしてもらいまし た。
3か月で飛び級し中学、高校と進学しました。その時は日本人が強いはずの算数 でさえ分からず苦労しました。理由は簡単で質問は電線の上に鳥が何羽いますか というフランス語の質問だからです。算数ではなく国語の問題で止まったのです。
しかしながら家族5人で助け合いながら、喜びも分かち合いながら過ごすことがで きたといま振り返っています。
長女のスキー教室に初めてついていったのが40歳を過ぎていましたが、それから 毎年スキーに家族で行くようになりパラレルで滑れるようになりました。日本に帰 国しても時々家族でスキーに行きます。一年中夏のガーナにいるとひんやりしたス キー場が懐かしく思いだされます

シニア海外ボランティアに参加された
きっかけは?
このような役目は赴任する国が発展
途上国になりますよね。
文化的な生活とは無縁になると思わ
れますが不安とか心配とかありませ
んでしたか?
今まで培った知識と経験を何か残したいと思い、シニア海外ボランティアに参加し ました。
まだ下の二人は大学生でしたが、まじめに働き、少しづつ溜めていたので金銭的 には何とかなると自己退職しました。
フイリッピンにも子会社があり何度か訪れていたせいか、開発途上国での生活の 不安はあまり感じませんでした。

言葉も習慣も違うところで生産・品質
管理について教えるということでの苦
労とはどんなものですか?
ここガーナでの社会通念は予想以上に異なっていました。
例えば、日本は時間を守ることを大切にしますが、ガーナでは食べることであり、 お葬式に参加することでした。集会や会議を開催する時は食べ物を準備しないと 不満たらたらとなってしまい、遅れてきたら不満たらたらとなる日本とは大違いでし た。
そのような訳で思っていたことの十分の一も出来ないまま任務が終わりそうです。 配属先に初めて行った時、10年は居てくれと言われましたが、その意味がなんと なく分かります。

どのような住宅にお住まいですか?
首都のアクラで生活を始めました。
住宅は停電時の自家発電機と断水時の貯水タンクがある所を借りると月20万から 30万円でした。そのため台所付きのホテルのシングルを借り、妻と二人で生活し ました。
シングルルームでしたがベットがダブルサイズでしたので、二人で住むのを交渉し たらOKでした。宿代は1年契約の前払いで月16万でした。これが開発途上国の現 状だと思いました。安全と水、電気は自分で買う必要があり貧困の差が大きいの です。

奥様も一緒だということですが、奥様
は進んで一緒に行かれたんです
か?
妻は私が強く行きたいと話した時に、子供たちのところに残るか、一緒に来るか悩 んだと思いますが、私と一緒に来てくれました。若し私一人であれば来なかったと 思います。

奥様の生活にも興味があります。
日本の便利な生活とは違う日常生活
での苦労とか不便とかはどのような
ものですか?
奥様も現地の奥様方になにかボラン
ティアで教えたりしているのですか?
お子様は日本に置いてきているとい
うことでしたが、いつから離れて生活
されているのですか?
ガーナは一年中夏で、特に日中はじりじりと太陽が照りつけます。日が落ちるとい いのですが、マラリヤを運ぶ蚊が出てきますので、多くは部屋で過ごしていまし た。

日本からみえている奥様達にも少しずつ誘ってもらい、ビーズやコントラクトブリッジ 等のサークルに参加することもありました。
子供が時々陣中見舞いに来てくれたので良かったです。

妻は帰るとは言わなかったので、私も無事病気もせず任期を果たせそうです。

いよいよ日本に帰国されるということ
ですが、リタイア後の生活設計はど
のようなものですか?
今までやれなかった趣味を見つけら
れるのか、それともまた日本で何か
仕事をされるのでしょうか?
若隠居をしたいと前々から思っており、その意味で57歳で会社をやめ、ここに参加 しました。
シニア海外ボランティアを一度経験すると何度もする方も多いのですが、私もあと 10年はやれるという感触を持ちました。
しかし若隠居の醍醐味も味わいたくここ1年くらいは一休みし、海外赴任時代に沢 山見つけてきたネタ(仕事以外の旅行や、趣味)を少しずつやろうかとも思っていま す。

小泉元首相がボランティアを激励にクホー 元ガーナ大統領とともに訪れた時のもの です。(2009.1.8)
(前列左端が伊藤さん)



  



Copyright (C) 2006 nagasakinishikou-talkkai. All Rights Reserved.