平和を祈る修道女

作画地の西坂町の町名は長崎氏の居城、城の越より見て西 方向の傾斜地にある事による。江戸期、浦上街道の起点であ った。

慶長元年(1596年)2月5日フランシスコ会のペトロ・パプチス タ神父(フィリピン総督使節)や修道士、及び一般信徒26名が 豊臣秀吉の禁教令で処刑された。処刑執行人は槍でもって両 脇を刺し、脇腹から反対の肩まで貫き急いで刑を執行した。

処刑者の中の聖トマス小崎(15歳)、聖ルドビコ茨木(12歳)、 聖アントニオ(13歳)の三少年は死を恐れる事なく「パライソ・イ エズス・マリア」と叫びながら立派に昇天した。

他、元和の大殉教などで多くのキリシタンが刑場の露と化さ れた。

文久2年(1862年)6月8日ローマ法王ピオ9世により聖人に列 せられた。

昭和37年(1962年)列聖100周年記念の舟越保武作の日本 26聖人殉教者記念碑完成。像は”昇天の祈り"とも呼ばれ、 十字架が浮き彫りされている。記念碑裏側には今井兼次設計 による日本26聖人殉教者記念館がある。

メキシコの殉教者聖フィリポに捧げられた二本の搭を持った美 しい聖堂が隣接し、長崎港の眺めは格別の味わいである。紡 錘形の聖堂の二本の塔は、マリア賛美の声が天に登り、恩寵 が地上に下る事を願ったものである。

聖母マリアを象徴する純白を基調としたモザイク塔の陶器、 は、26聖人が護送された京都から長崎までの各地で作られた 陶器の破片を集めたもので、天使の翼と称され、聖母マリア 及び聖霊に捧げられた。その昔、ポルトガル人は入港ごとに 礼砲を放ちこの聖地に敬意を表した。西洋においては西坂の 丘を殉教者丘(Le Mont des Martyrs)と称されている。

昭和56年(1981年)ローマ法王ヨハネ・パウロ2世は西坂の丘 を「至福の丘」と命名。